講演「日本人と海外移住」
1974年農水省経済局国際部入省
1982年外務省中南米局移籍
パラグアイ日本大使官書記官
1986年JICA企画部移籍
JICAパラグアイ次長
2007年横浜センター長
2009年JICA退職の後、エクアドル所長
2016年国際開発ジャーナル顧問
2022年国際開発ジャーナル退職
講演などというレベルの話になるかどうか、皆さんの知的レベルに添えるか不安ですが、経歴を見ていたただきご想像できると思いますが日系移住、協力隊、開発青年等などの実務を現場とJICA本部で担当したので、お話しできるほどの材料はあろうかと思います。
国家としての移住政策
日本の国家としての移住政策は近代化の過程で生じた「棄民」という暗部のようなものを引きずっていますが(明治維新、昭和恐慌、敗戦)、グローバルな労働力移動としてとらえた場合、もっと自由な職業の選択肢だったと考えることもできます。JICAにはその視点は希薄であったと思います。国の政策と金で送り出した以上は「帰ってきてもらっては困る」という定住型の発想がすべてでした。そのため昭和になってからは国家が土地を確保して、その土地を移住者には融資して買わせる農業定着をすすめました。もっとも、それだけでなく20年前に移住資料館で、「戦争花嫁」のような特集を組んだのは、若い女性たちの「もう一つの戦争」があったことが偶然に発掘できたからでした。皮肉にももう一つの戦争を記憶していたのは、国民でも国家でもなく、天皇家の方々でした。
移住の歴史的整理
昔のことになりますが、移住の農業開発問題にもともと興味があって農水省にはいったこともあり、JICAにおいても基本では移住問題から離れたことはありません。JICA中南米の統括としては日系移民300万人以上を送り出している全国都道府県との連携を考えて進めてきた思いがあります。
移住150年の歴史のなかでいまや300万人の日系人が世界に暮らすわけですが。最初に移住を歴史的に整理すると(移民関連年表より)次のような推移となります。
第Ⅰ期 海外渡航の始まり1853年から1884年ペリーの黒船来航から明治元年の日本人労働者をハワイとグアムに送った時期、
第Ⅱ期 1885年から1907年日本人労働者の入植 ハワイ移民、メキシコ、ペルー、ボリビアへの移民
第Ⅲ期 1908〜1940定住移民の始まり、ブラジル行、笠戸丸
第Ⅳ期 1941〜1945 海外移住の中断 第二次世界大戦
第Ⅴ期 1946〜1999戦後海外移住の始まり
3つの歴史的ポイント
ここで3つの歴史的な点でまとめてみましょう
1点目は 明治維新から始まった150万人に及ぶ移住者を送り出すことになった理由です。これは相手国が多岐にわたり、なかなかわからない。良い書籍も存在しないのです。あえて挙げるなら移住学会が出した「移住150年史」です。
2点目は 一つにくくってまとめられないのは移住の目的が最初は出稼ぎ労働で、その後、帰るに帰れず、徐々に定着者がブラジルを中心に出現すると、後続は移住そのものが目的となり、移住国は十数か国となります。 例えばジャーナル社の荒木家の歴史では奄美大島出身だがパラオに移住し、オオーストラリアのアラフラ海の真珠とりを仕切りました。当時日本の潜水士は優秀でした。真珠貝からワイシャツのボタンを作りました。またマーシャル諸島なども日本の委任統治であったことから、戦前まで日系人が沢山住んでいました。
いま私たちが読む資料ではカナダ、アメリカ、南米、アジア、満州などの出稼ぎや移住があり、それぞれは個別には違うわけです。北米での移住と、南米移住での定住に至る過程などは一つにはまとめて語れないのです。日本の移住は良いことだけではなく、ある種、棄民としての側面もあった。それでも一連の継続性はあります。明治初期のハワイへの出稼ぎマラリアで失敗して次はアメリカ本土への移住を目指すが、20世紀に入り日系人移住は禁止されてしまいます。これに代わる策としてペルーが出てくるが、過酷な労働条件の中で日本人たちの多くがボリビア、ブラジルに脱出する。南米の農業移住地として初めてブラジルが出てきます。そのような歴史的なストーリーが見えてきます。
3点目は多文化共生。ブラジルやアメリカ、カナダの中での日系人の位置やアイデンティティをどのように考えていったらいいのか。このエスニティ研究はJICA移住資料館の課題でありました。それは今や20万人を越えるといわれる中南米からの日系人出稼ぎ労働の問題。更に帰国後の彼らの国の中での彼らの問題でもあります。私が横浜センターの所長の時、神奈川大和市のいちょう団地の課題が明らかになりました。団地の中の2/3位が、ベトナム人、中国人、カンボジア人の子供たちで、これは群馬の大泉なども同じ問題を抱えています。日本語を全くできない子供たちが存在しているのです。日本語が不自由な日系ブラジル人の子女が学校になじめず不登校に陥るケースも問題となっています。関西などでは移民の子弟だけでなくネパール人などもいて切り離せない問題なのです。この問題を誰がお金を出して、ブラジル語、ベトナム語、英語ができる先生を配置するのか?だれが日本語の指導をしてくれるのでしょうか?
在日外国人は300万人が存在
現在日本には出稼ぎ労働者を含めて300万人近くの人々が存在しています。驚きませんか、イギリスが100万人、ドイツが200万人で、日本はもうそれを超えているのです。日本は立派な移民国家なのです。与党も野党も誰かがそんな状態を作ったのだといいいます。保守党の中では欧米のようになってはいけないという意見が強いですが、外国人については、日本人の家族観の中で自然に人口を増やしていきたいと考えているのでしょうが、すでに日本はそんな現状を超えているのです。
国連は、「通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも12カ月間当該国に居住する人のこと」を「移民」と定義しています。また、「外国人労働者」というのは単なる呼び方にすぎず、1年以上外国で働けば、それは世界常識から「労働移民」でしょう。しかし、日本の定義では違い純粋な移民は圧倒的に少ないことになっています。
これまでの日本は、移民はイヤだが、労働力としての外国人は欲しい。そこで、国民には移民ではないとして、外国人労働者をなし崩し的に受け入れてきました。これでずっと通してきた。 しかし、これは、完全な“ご都合主義”色メガネの多文化共生でしょう。
しかし、アメリカは人口が半世紀で2倍の3億人を超えてきている。そこがアメリカの偉いところで移民を受け入れないと言いながら、アメリカは人材をうまく都合して入れている現実があります。
日本人の国籍の概念は諸外国と違う
アルゼンチン人、人口3000万人の半数は二重国籍なのですが、この多重国籍という考え方が、流動性を認めているのです。私の友人が日本国籍のほかアメリカ国籍も持っていた。アメリカに赴任しようとして、出生で過去のアメリカ国籍がわかり、アメリカから言指摘されたのは、もともとアメリカ国籍を持っていながらアメリカ国籍を捨てるような外交官とは話せないと言われたということです。日本では二重国籍は認めていないので、どちらかを選択しなくてはならないし、日本の外務省に勤務するためには日本国籍がなくてはならないからです。中南米も属地主義ですから、国籍はいくらでも取れる。3重国籍だってあり得ます。
日本は血統主義、生まれた国に関係なく、父母から受け継いだ血縁関係により国籍を取得するという考え方です。日本はこの血統主義を採用している珍しい国であり、父母のどちらかが日本人であれば、生まれてくる子どもは日本国籍を取得します。日本に帰化した者の原国籍国が国籍放棄を認めない場合などは、結果的に二重国籍となるのです。この、属地主義は、アメリカ、欧米において移住のハードルが低い理由でもあるでしょう。日本人の持つ国籍の概念は古臭いのではないでしょうか。
なぜ、人々は海外移住を決断したか?
最後に歴史的な日本人移住の原因です。なぜ、人々は海外移住を決断したのでしょうか?
近代的土地所有権と占有権・入会地の対立、明治民法の地租改正で、農民一人ひとりに3%以上の税金がかかるようになり、税金を安くするために、入会権を放棄した結果は、例えば村の2000ヘクタールの共有地がある日突然なくなった。里山はなくなった。その結果日本国土の2割が天皇家の領地になったのです。
薪も取れない、牛や馬の食べる草も、水利権、漁業の権利など共同体が共有していたものが。近代民法では取れないことに気づいた。里山と言われた共同体に属する人たちが利用してきた入会地を自由に使っていた農民は、地租改正において、税金を払わなくてはならなくなり。ローカルコモンズが崩壊。それにより農民の下層分解が進み、小作人及び過剰人口の温床となったのです。
零細農の2割の農業者は税金滞納により村落より流出しました。しかし、これを吸収する都市の形成、工業化が明治時代は未発達。農村の過剰人口はハワイ、アメリカに出稼ぎに行きました。1930年年代の昭和恐慌以前に日本農業の崩壊の兆しが見えたので「満州国」の設立にまでなります。結局は戦争に至ります。北米も南米も「連合国」側でしたから、北米では収容所、南米でもペルー、ブラジルのサントスでは強制収容所に送られました。特に、南米では、情報が無いのでラジオの短波放送で日本の「大本営発表」を毎日聞きながら、日本人移民全員は日本が勝っている。もうすぐ「天皇の船」が迎えに来てくれると信じていました。戦争は移住者にとっても過酷な記憶でした。
しかし、敗戦を知った日本人移住者の中からララ物資と呼ばれる日本への食糧援助をする。沖縄戦で壊滅した沖縄県人のためにボリビアでは移住地がつくられる。パラグアイでは高知県と岩手県の山村の人々が移住しました。戦争による疲弊を救ったのは、南米で苦労した日系人の基盤があってこその戦後移民でした。日本を離れ新しい大地で自由に生きる、移住を望む新しい動機ができたのではないでしょうか。