ヨルダン報告13(最終) 2004年3月

 一昨日,ムタ大学での最後の授業が終わりました.Basicコース,中級コースあわせて約50名,理学部からも大勢の学生が受講に来て,これまでにない盛況でした.はじめに「今回は10回しか講義できないので試験はなし,8回出席すればCertificateを与える」と言ったところ,あまり態度がよくなく,さすがに私も途中で大きな声を出してしまいました.そして,前言を翻して,「最終日は試験」と言うと,急に真面目になりました.24日の試験では前もって試験問題も教え,ノートも本も持ち込み可だが,「No Cheating」ということだけは厳しく言っておきました.にもかかわらず,すきがあれば友達の答案を見ようとする学生がいます.意外なことにムスリムの服装をしたおとなしそうな女子学生にも.私としてはCertificateではなく,講義の内容自体に興味を持ってほしいのですが.
 さて,来週月曜日の早朝,いよいよヨルダンを去ります.こちらにいるうちに,まとめの報告をお送りします.自分で2年間の活動を評価すると80〜90点というところでしょうか.十分に満足して日本へ帰ることができます.しかし,はじめから順調だったわけではありません.

◆ それは「ミスマッチ」から始まった
 私がシニアボランティアとしてヨルダンに来るまでの経緯はいささか複雑です.実はその1年前,2001年の春から2年間の予定でヨルダンに来るはずでした.配属先はジョルダンニューズエイジェンシー(JNA),つまり1年後に始まる実際の派遣とまったく同じ案件によってです.私はこの派遣にかなり期待していました.なぜなら,Java,C++,グラフィックス,インターネットウェブなど,要請されている内容はどれも私が得意とする分野だったからです.
 しかし,2次試験まで合格したにもかかわらず,このときは派遣を断念せざるを得ませんでした.事前に受験の許可を得るという手続きを忘れていたために,都教委から現職派遣の許可が下りなかったからです.私としては今の仕事を辞めてまで行く決心はつかなかったので,1年間,有資格者登録という形で待つことにしました.
 そして,半年後の2001年秋,今度は都教委の許可を得た上で,再び受験ということになりました.私は前回と同じ案件があることを祈りつつ,募集要項を開いてみました.しかし,誰か他の人に決まってしまったのか,それとも要請自体が消滅してしまったのか,もはや,その案件は存在しませんでした.正直なところ,私はかなり落胆しました.しかし,シニアボランティアとして海外に出たいという希望は強かったので,代わりに他の案件を探すことにしました.その結果,自分の専門とはあまり合致していないことを承知の上でチュニジアとタイの案件を選び,それらに応募しました.
 その後,1次試験に合格し,2次の語学試験と続きますが,2次試験の受験後すぐ,合格発表の前にもかかわらず,JICAから突然の電話を受けました.ヨルダンへ行かないかという誘いでした.送られてきたS1フォーム(案件の内容が記された文書)は前年のものとまったく同じ.本当に大丈夫なのか.一抹の不安が頭を過ぎりましたが,ここでOKと言えばそれで決まりということだし,そもそも自分が希望していた案件だったので,私は承諾することにしました.こうして2002年の4月,私はヨルダンに赴任することになったわけです.
 ヨルダンに赴任後,私の不安は現実のものになりました.S1フォームによれば,私の配属先はJNAですが,要請の背景として次のように記されています.
……….最近のめざましい通信技術の進歩に対応するため,横断的にコンピュータ・通信技術ラボを設立し,コンピュータソフトウェア(JAVA,C++,グラフィック,インターネットウェブなど)を活用して組織の強化を図ることになり,経験豊かなシニアボランティアの派遣を要請してきた.なお,このラボはUNESCOの機材を活用して運営されるため,UNESCOとの共同プロジェクトになる.
この文面から判断し,私はUNESCOで仕事ができると期待していました.実際,この案件はUNESCOのほうが主導権を握って計画を立て,JICAに要請してきたという経緯があることを後から知りました.
 しかし,私の派遣の時点で,この計画は頓挫していました.つまり,私に送られてきたS1フォームはすでに過去のものだったのです.私がJNAに行ってS1フォームを見せたときに,2人のカウンターパート(職場との橋渡し役になる現地人スタッフ,JICAの方針ではこの人たちに自分の技術を伝授することになっている)はこういうものをはじめて見るという様子でした.そのうちの1人は私にはっきりと「UNESCOに行く必要はない」と告げました.後日,この案件の作成に携わったUNESCOの職員に会ってみると,彼はすでに上司との関係がうまくいっていないようでした.実際,彼はそれから2,3ヵ月後にUNESCOを去ります.なお,それから約1年後,上司が変わったのを契機に彼は再びUNESCOに復帰し,アフリカに渡ったそうです.

◆ JNAからアラブアカデミーへ
 そのような経緯があり,私はUNESCO行きをあきらめ,改めてJNAにおける計画を立て直さなければなりませんでした.しかし,あえてJNA内でのJavaトレーニングを試みたものの,約2ヶ月で予定のコースは終了し,同一メンバーでの計画の続行は難しい状況に至りました.8月はじめのことです.しかし,JNAには他に受講するスタッフはいません.
 この時点で,すでに私はJNAで2年間働くのは無理だという判断に傾いていました.他に働き場所を見つけようという気になっていました.そんな折に運よく同僚のシニアボランティアからアラブアカデミーでの仕事を紹介してもらうことができました.そして,最初の4週間の講義の後,9月にはJNAからアラブアカデミーへの配属先変更も完了しました.JNAへの配慮から,これからも週に1回は旧職場に顔を出すという約束も付け加えられましたが,結局,この約束を守ることはできませんでした.
 そのとき私の気持ちは固まっていました.残り1年半の任期をJICAの既定方針に縛られず,自分の考えに従って行動しようと決心しました.要請されればどこにでも出かけ,可能なかぎり数多くの講義を行うつもりでした.それもカウンターパートを通してではなく,直接,学生相手に講義するつもりでした.
 念のために言いますと,このミスマッチについて,私は少しもJICAを恨んでいません.いろいろな大学で多くの若い熱心な学生と出会うことができたのはミスマッチのおかげです.それに多少のミスマッチはシニアボランティアが当然のこととして覚悟しておかなければならないリスクだと思います.

◆ ボランティアに徹する
 その後の経緯についてはこれまでの報告の中で詳しく述べているので省略します.私としては「ボランティアに徹する」ということをつねに心がけてきたつもりです.大学での講義にしても,「してやる」ではなく,「させてもらう」という気持ちを忘れないようにしました.待っているのではなく,仕事を求めて自分から積極的に動きました.これが実り多いシニアボランティア生活をもたらした最大の要因だったと思います.ヨルダンにおける私の具体的な実績は次の通りです.
トレーニング「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Graphics in Java」
個人指導「Basic Java」
講義「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Graphics in Java」
個人指導「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Java」
個人指導「Basic Graphics in Java」
講義「Basic Java」
卒業Project指導
日本音楽の紹介,合唱指導補助
講義「Basic Java」
講義「Java Windows Programming」
Jordan News Agency
Arab Academy
UNESCO(ろう者)
Jordan University
Arab Academy
Mutah University
Arab Academy
Mutah University
Arab Academy
Mutah University
Mutah University
Yarmouk University
Mutah University
Mutah University
2002/5〜8
2002/8〜9
2002/9
2002/9〜10
2002/10〜2003/1
2002/11〜12
2003/5〜8
2003/6
2003/7〜8
2003/10〜12
2003/11〜12
2003/12
2004/2〜3
2004/2〜3
 こうして2年間を振り返ってみると,いろいろな場面が懐かしく蘇ってきます.講義する相手が見つからず,暇を持て余してしまう時期もありました.Javaの講義はすべてBasicレベルで,Advancedレベルの講義は一度もできませんでした.まだまだ余力はあったし,コンピュータを離れて純粋な数学や物理も教えたかったという気持ちもあります.しかし,全体を通して見るならば,自分でも十分に合格点を与えられると思っています.
 個々の場面では心残りに思うこともあります.たとえば,ジョルダン大学での講義が中途半端なままで終わってしまったことです.ジョルダン大学では2002年の9,10月に合計15回の講義を行いました.聴講にきた女子学生たちはみな優秀で,私の言うことをたちどころに理解するばかりでなく,思いもよらない方法で問題を解いたりして,私をびっくりさせることもありました.自分でオリジナルなプログラムを作って見せてくれることもありました.このまま継続すればかなり高度な内容にまで踏み込めると期待していました.しかし,大学側の協力を得ることができず,それだけでたち切れになってしまいました.
 今年1月の報告で書いたヤルムーク大学でのフルートの件も心残りです.もっと早く始めなかったことを悔やんでいます.
 ところで,この国に来る前に一番不安だったことは何でしょうか.私にとって海外での長期滞在ははじめてでした.そもそも私は海外旅行の経験もそれほど豊富だったわけではなく,ひとりでふらっと外国へ行ける人がうらやましいと思っていたくらいでした.気候も習慣も違う異国での生活に耐えられるかどうか,もちろん心配でした.しかし,それはどうにかなると思っていました.私が一番心配だったのは自分の専門に関することでした.はたして自分の専門性が通用するのか.それが杞憂だったこと,これが2年間の最大の収穫です.

◆ 宗教に関する考察
 宗教はこの地域の生活や政治に深く関わっています.宗教を抜きにして中東を語ることはできません.この地域の人々はとりわけ強い宗教心を持っています.もちろん,モスクへお祈りにも行かず,ビールを飲んだりしているムスリムがいることは知っています.しかし,総体としてみれば,この地域の人々は日本人とは比べものにならないほど宗教的です.普段は偉そうにしている大学の先生が跪いて祈っている姿を,思いもよらずドアの隙間から見てしまったこともあります.そんなときは「見てはいけないものを見てしまった」というような罪悪感にさえ囚われました.
 世界中どこでも人間は宗教的だと思っているのか,彼らはよく「あなたの宗教は何か」と聞いてきます.はじめ,私は自己欺瞞だと知りつつ「仏教徒だ」などと答え,あとで自己嫌悪に陥っていました.しかし,途中からはっきりと英語でatheist,つまり無神論者だと正直に答えるようにしました.そうしたら,後味の悪い思いをしなくてすむようになりました.もちろん中には怪訝な顔をする人もいましたが,それが原因で人間関係が気まずくなるようなことはありませんでした.
 宗教の意味とは何なのでしょうか.この問題については宗教的でない人間のほうが冷静に考察することができます.昔,ロシアの革命家が言いました.「宗教はアヘンである」と.この指摘は真実の一面をついています.宗教には現実の経済的,物質的な痛みを超越し,そこから目を逸らす効果があります.宗教を信じる人間にとって,神は絶対的な存在です.唯一の究極目標であり,人生はそれに近付くための永遠に続く過程です.目標がゆらいだり,それを見失ったりすることはありません.そして,このことが日常生活における心の平穏をもたらします.
 その対極に位置するのが我々日本人のような神を失った人たちです.絶対的な基準はなく,人々は他人と見比べることによって自分を確かめようとします.その他人も自分を他人と見比べる不確かな存在であり,基準は移ろいやすく相対的です.「他人と比較して優れているか」,「他人からどう見られているか」,いつもそのようなことが自己を支える判断基準になります.したがって,精神状態はいつも不安定でイライラしています.このような不安定さはあくせく働き,前進し続けることによってしか解決しません.おそらく,20世紀後半の日本の「発展」はそのような不安定さがもたらしたのでしょう.こちらで生活して比較してみると,いかに日本人の労働時間が長く,精神状態が不安定であるか,よく分かります.一時帰国した折に電車で向かい側の座席に座っている人を観察していると,思わず吹き出してしまいます.みんな腕組みをして,眉間にしわを寄せ,アトラスのように世の中の苦悩を一身に背負っているという表情です.
 中東の伝統的なアラブ社会は現世の物質的な発展を放棄する代わりに精神の安定を得た社会です.各個人は直接的に神と対峙しています.日本と比較して物質的には貧しく,いろいろな面で自由が制限されているにもかかわらず,人々は底抜けに明るく開放的です.少しも屈託がありません.イラクのように外部からの勢力によって崩壊してしまった国を除けば,一般に中東のイスラム国家は日本人が考えているよりはるかに安全です.「暴走族」やチンピラ,押し売りの類は皆無です.世俗的な日本社会と宗教的な中東社会を比較して,好きか嫌いかを言うことができても,どちらが優れているかは簡単には判断できない問題です.
 ただ,歴史的に見て,この地域において宗教が停滞を生んだということは事実だと思われます.数学の歴史の中でインドとアラビアが最も先進的な役割を果たした時代があります.西暦500年から1000年くらいまで,すなわちイスラムの勃興をはさむ前後500年くらいかと思います.インド人の輝かしい業績である「0の発見」はアラビアを経由してヨーロッパに伝えられました.現在でも使われている数学用語「Algebra(代数学)」や「Algorithm」はアラビア語起源です.しかし,私は数学に対するイスラムの影響はむしろマイナスに作用したと考えています.「イスラムの影響が浸透するにつれて,この地域の数学は衰退した」と見るのが妥当なのではないでしょうか.近代科学の発展には神をも含めてすべてを疑うという懐疑主義,その結果,「我思うゆえ我あり」に到達したデカルト的な徹底した批判精神が必要です.イスラム教において,神まで疑うことは決して許されない行為です.
 一度,ムタ大学の学生に数学におけるアラビアの「過去の栄光」について聞いてみたことがあります.そうしたら,さすがにみなさん,よく知っていました.アル=フワリズミ(当時の有名な数学者)の名前も知っていました.それ以上,突っ込みませんでしたが,おそらく小中高の暗記教育の中で無批判に覚えさせられたのではないかと疑っています.
 余談ですが,先日,非常に珍しいものに出会いました.現地人の酔っ払いです.もちろんヨルダンに来てはじめてです.ムタ大学からの帰り,バスターミナルからセルビス(乗り合いタクシー)に乗って家に帰るとき,3人がけの後部座席の反対側に座っていました.ぐてんぐてんというほどではありませんでしたが,アルコールの臭いを発散させながら,アラビア語で真ん中のヨルダン人青年にからんでいました.私は反対側を向いてくすくす笑い,そのうちに運転手から降ろされましたが,非常に懐かしく,ホッとした気分になりました.

◆ さらばヨルダン
 異国での2年間,時間は十分にありました.たとえ忙しいと言っても,日本での忙しさとは比べものになりません.私は余暇を利用してヨルダン国内を隈なく旅行し,数々の国外旅行も試みました.2年間に残した足跡は次の国や地域に及んでいます.
シリア
トルコとギリシア
ドバイ(帰国途中)
スコットランド
ローマ(帰国途中)
シナイ半島
ギリシア
カイロ
2002/9/13〜19
2003/1/20〜26
2003/2/23〜24
2003/7/2〜8
2003/8/29〜31
2003/11/25〜28
2003/12/11〜17
2004/1/20〜24
 私は文章を書くことが好きなので,暇さえあれば何か書いていました.国際研のホームページに載せる『ヨルダン報告』の作成にも時間を費やしましたし,本も書きました.こちらでの講義内容をまとめた『すぐできるJavaグラフィックス』が講談社から出版される予定です.この新作以外に,すでに出版済みの3冊について,頼まれてもいない改訂版を完成させました.ただし,こちらのほうはまだ出版の目途は立っていません.
 その他,植木いじり,毎朝のストレッチと筋力トレーニングなどもやりました.あまり上達しなかったけれど,いろいろな料理にも挑戦しました.それでも時間は余ったときはBBCニュースを聞いたり,BBCのWebページを読んだりしていました.おかげで,英語力も少しは上達したと思います.
 2年間の活動を終えて,今は日本に帰ろうという気になっています.次にJICAの活動に参加するとしたら,アラブ以外の別な地域に行きたいと思っています.しかし,将来,この地域に再び戻ってくる可能性を否定しません.少なくとも,ここに来ればやることは十分にあるので.

                    (完)