ヨルダン報告8 2003年8月

 昔から私は辺境という言葉が好きでした.だからスコットランドは憧れの地でした.7月上旬のスコットランド,よかったですよ.どんよりしたエディンバラの街,晴れた日のネス湖の真っ青な湖面とアーカート城,反対に雨の日のオー湖と霧にかすんだキルチャーン城,やはりスコットランドには湖と朽ち果てた古城が似合います.けっこう寒く,コートを着ている人もかなりいました.反対にTシャツの人もいましたが.夜は10時過ぎまで明るく,朝も3時過ぎには明るくなります.ずいぶん北まで来たんだと思いました.ただ,若い女性に肥満が多いのと煙草を吸う人が多いのが意外でした.
 スコットランドから帰ったらすぐ,アラブアカデミーでBasicコースとAdvancedコースの講義を並行して始める予定でした.しかし,なかなか受講生が集まらず,結局,希望者はBasicコースの1人だけ.予定より2週間以上も遅れ,またも細々とした個人教授になってしまいました.
 以前の報告で授業料をきちんと徴収したほうがよいと書きました.安すぎる授業料だと,学生が真剣にならず,適当にサボってしまうと思ったからです.そこで授業料を5JDから8倍の40JD(約7000円くらい)に値上げしてみたのですが,この試みは失敗に終わりました.最終的にはこれまでと同じくらいまで下げざるを得ませんでした.日本の感覚でいえば,トータル20〜30時間の講義を7000円という額は決して高いとは思えませんが,こちらの経済的に豊かでない学生にとってはかなり負担のようです.また学生たちは私の身分がボランティアで,アラブアカデミーから金銭を受け取っていないということを知っており,高い授業料を払うことに抵抗があるようです.
 次のようなこともありました.これまで私は最終試験にパスした学生に対し,アラブアカデミーの名前で簡単なCertificate(合格証明書)を作り,再生紙に印刷して渡していました.自分が学生の頃,講義終了ごとに合格者にCertificateを渡すという習慣はなかったので,私は事情がよく分からず,その程度のもので十分と考えていました.しかし,こちらの学生にとって,Certificateはかなり重要な意味を持つようです.就職のときに有利になるのでしょう.所属先の大学だけでなく,いろいろな機関からCertificateをもらいたいようです.
 実は前々回の講義で合格した受講生から,「あの薄っぺらなCertificateにはがっかりした.アラブアカデミーのものではなく,もっときちんとした紙に印刷したJICAのCertificateがほしい」というクレームを受けてしまいました.そこで私はこれまでの合格者全員分のJICAによるCertificateを厚手の紙に印刷して作り直し,本人たちに直接手渡すことにしました.すでにアラブアカデミーを卒業している人もいて,全員に渡すことはできませんでしたが,新しいJICAのCertificateを受け取った学生は思いのほか喜んでいました.
 昨年の最初の講義では手伝ってくれたイエメン人の手前,単位認定を厳しくしました.しかし,次からは「仏の芹沢」に戻っています.分からない学生にはヒントを与えて解いてもらい,少なくとも試験を受けに来た学生にはCertificateを与えるようにしています.
 ところで,9/1(月)から10/15(水)まで日本に帰国します.5月中旬にこちらに戻ってから,まだ3ヶ月と少ししか経っていませんが,別に何かあったわけではありません.そろそろ来年のことも考えなければならないので,予定通りの帰国です.
 次にヨルダンに戻るのは10月中旬です.私に残された期間はもう半年もありません.アラブアカデミーで受講生が集まりにくいのは単に金銭面の問題だけではないようです.アラブアカデミーは社会人対象の大学ということからも分かるように実務を学ぶ大学であり,学生はすぐに仕事に役立つ知識を求める傾向にあります.ところが,私の講義はどちらかといえば基礎的な内容中心で,実戦的ということをあまり考慮していません.彼らにとってはそれほど魅力的ではないのかもしれません.それにアラブアカデミーで私の講義内容に興味がある学生は,すでにほとんどが聴講してしまったようにも思えます.いずれにしても,今後も多くの聴講生は期待できそうもありません.
 一方で6月の講義の後も,ムタ大学からはこれからも続けてほしいという要望を受けています.学生も基礎的領域も含めて幅広く知識を吸収しようという意欲があり,私の講義内容にも興味を持っています.私も限られた期間を有意義に使いたいので,10月以降は活動の中心をムタ大学に移そうと考えています.もちろん,私の任期はあとわずかなので,再度の配属先変更というようなことまでは考えていません.
 ところで,私が気に入っている1人のアラブアカデミーの学生を紹介したいと思います.名前はSari,日本人の感覚では女性名に聞こえますが,Sariは彼です.私が教えた中で最も優秀な学生の1人です.余談ですが,私は自己紹介のときに「My name is "Hiroshi Serizawa".」ではなく,「My name is "Serizawa Hiroshi".」というようにしています.苗字を先にいうのは日本の習慣であり,そこまで欧米の習慣に合わせる必要はないと思うからです.そして,たいていは「Please call me "Seri".」とも付け加えます.これまで生徒や同僚にそう呼ばれることが多かったので.そんなわけで「お互いに名前がよく似ている」というのが最初の会話だったことを覚えています.似ているのは名前と苗字の一部ですが.
 Sariはガザの出身,パレスチナ自治政府の奨学金を得てエジプトのカイロ大学に留学した後,アラブアカデミーで勉強を続けています.決してハマスの闘士にはなれそうもないような温和な彼ですが,故郷を思う気持ちは人一倍強く,いずれガザに戻って国の再建に尽くしたいといっています.
 その彼が7月,何かのコンファレンスで発表する機会を得て,ドイツへ渡りました.はじめての渡欧だったようで,ヨーロッパ文化の洗礼を受けて,えらく感動して帰ってきました.たとえば街がきれいなこと.人々が強制されるのではなく,自発的にゴミを捨てないようにしていること.自分が今まで見てきたアラブ世界とのあまりの違い.何しろアラブはタバコの吸殻や空き缶を道路や空き地に捨てることに何の良心の咎も感じない土地柄です.アンマンに戻ったとたん,「私はDepressed(打ちひしがれた)」と笑いながら話していました.そこで私は「いっそのことヨーロッパに移住したらどうだ」とけしかけてみました.そうしたら,即座に「私はガザを見捨てることができない.私はSacrifice(犠牲)になるつもりだ」という断固とした決意が返ってきました.その言葉に少しも気張ったところや悲壮感はありません.早く彼が活躍できるようなガザになってほしいと思います.
 ところが,最近,また暗雲が立ち込め始めました.バグダッドではヨルダン大使館に続いて国連本部も爆破されました.反対側のパレスチナでも停戦が破棄され,暴力の応酬が再開されました.今のところアンマン市内は平静ですが,しばらく鳴りを潜めていたパレスチナ,イラク支援の動きも始まったようです.私の考えでは,たとえ生きていたとしても,イラクでフセインはもう力を失っていると思います.国際的なテロ組織がフセイン体制の生き残りを吸収し,主導権を握って過激な行動に走っているように思えます.
 1年半こちらにいて,政治的にも文化的にも難しい地域だということがよく分かりました.最近は,とりあえず中東は来年3月まででいいと思うようになってきました.またいつか戻ることがあるかもしれませんが.



エディンバラ旧市街



ネス湖とアーカート城                        オー湖とキルチャーン城